東京地方裁判所 昭和53年(合わ)377号 決定 1979年6月11日
少年 N・I(一九五九年一〇月生)
主文
本件公訴を棄却する。
理由
本件公訴事実は、「被告人は、友人であるAがK(当時二〇年)から脅迫されていることを知り、機先を制して右Kを殺害しようと決意し、右A、B、C、D、Eほか二名と共謀のうえ、昭和五三年九月一七日午後一一時四五分ころ、東京都新宿区○○○町×丁目××番××号所在の○○○ビル一階ゲームセンター『○○○』に至り、同店内において、右Cが右Kに後方から抱きつき、右Bが所携の中華包丁で右Kの胸部等に切りつけ、同人が逃走するやこれを追跡して同町×丁目××番所在の○△○共同ビル新築工事現場前路上において同人を捕え、同所において、右Aが右Kの頭部を手拳で殴打するなどし、右Bが前記包丁で右Kの腕部等に切りつけ、更に同所付近路上において、被告人、右D、右Cがそれぞれ所携の包丁、ナイフ、牛刀で右Kの後頭部、背部等に切りつけたが、同人が逃走したため、同人に安静加療六か月間を要する左手関節部切断、右前胸部、頭部、背部切創等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかつたものであるというのである。」というのである。
ところで、本件起訴状には被告人は一九五六年八月一日生れである旨記載されているところ、被告人は、第一回公判期日の冒頭手続において裁判長の質問に対し一九五六年八月一日生れである旨供述したほか、本件捜査段階において作成された司法警察員作成の被告人の昭和五三年一〇月九日付供述調書、検察官作成の被告人の同月一二日付供述調書、司法警察員作成の同月九日付「被疑者の身許の『氏名』変更についての捜査報告書」と題する書面、及び東京入国管理事務所長作成の同月二四日付「捜査関係事項について(回答)」と題する書面添付のラオス国政府発行の被告人の身分証明書の写し(東京入国管理事務所長作成の昭和五四年四月二七日付「捜査関係事項について(回答)」と題する書面添付の同身分証明書の訳文参照。)、並びに後記のとおり被告人が年令についての供述を変更後の調査にかかる警視庁刑事局国際刑事課長作成の「公判中殺人未遂被疑者の年齢確認方について(回答)」と題する書面添付の中華民国戸口名簿写しによると、いずれも被告人は一九五六年八月一日生れとなつている。
ところが、被告人は、第九回公判期日における最終陳述の段階に到つて、突然自己の出生年月日は一九五九年旧暦の九月一一日であつて自分は二〇歳未満である旨従来の供述を変更し、その後第一〇回及び第一三回公判期日において、ラオス国政府発行の身分証明書記載の出生年月日が実際とは異なる記載になつているのは、昭和四九年三月ごろ、出生以来住んでいたラオスが政情不安となり、経済的に窮迫し、日本に渡航して就労しようと考えたが、被告人が当期未だ一四歳であつたため、年令の関係で就職等に困難を来すことになることを恐れ、ラオスで出生証明書の下付けを申請した際村長に頼み込んで出生年を遡らせて作成してもらい、これに基づいて身分証明書が作成されたことによるもので、前記中華民国の戸口名簿も、右身分証明書を提出して中華民国のパスポートの下付けを受け、同パスポートを提出して編成してもらつたため出生年月日の記載が右身分証明書の記載と一致しているのであり、また、被告人の兄であるN・Kのパスポートに記載されている同人の出生年月日も、ラオスで同人の身分証明書の下付けを申請した際被告人と同様に出生年を遡らせて作成してもらつたため実際より遡つた記載になつており(東京入国管理事務所長作成の昭和五三年一〇月二四日付「捜査関係事項について(回答)」と題する書面添付のN・K名義の中華民国護照写しによれば同人の出生年月日は一九五五年八月九日となつている。)、また、被告人の妻のK・S子は自分より一歳年長である旨供述し、なお、被告人が捜査当時及び公判の当初一九五六年八月一日生れである旨述べたことについては、真実の出生年月日を述べても信用してもらえないと思つたためである等の理由を述べている。
そこで、被告人の年令について検討しなければならないのであるが、まず、台北在住の被告人の母A・R子から当裁判所に送付してきた前記N・Kのラオスビエンチャン華僑公立○○中学卒業証書(翻訳人○○○作成の訳文参照。)には、N・Kが中華民国四六年二月八日(西暦一九五七年二月八日にあたる。)生れである旨の記載があるところ(文書の性質上この記載は一応信用性があると考えられる。)、この出生年月日は、前記N・K名義の中華民国護照写しに記載されている同人の出生年月日より約一年六か月あとであるばかりでなく、前記被告人の身分証明書写し等に記載されている被告人の出生年月日よりも約六か月あとの年月日ということになるものである。つぎに、A・R子は、当裁判所裁判長に宛てた手紙において、N・Kの出生年月日は一九五七年二月八日であり、被告人の出生年月日は一九五九年一〇月三〇日であるところ、ラオス戦乱によりタイを経て台湾に来て、経済的に困り、子供らがそれぞれ外国に出稼ぎに赴くことになり、その際年齢を詐つて申請して旅券を入手したものである旨を述べているが、この所述は、すでにラオスにおいて子供らの年齢を詐つて申請して身分証明書を入手していたのではなかつたか等の未詳箇所はあるが、骨子において被告人の当公判廷における供述と合致するものである(なお、警視庁刑事局国際刑事課長作成の「公判中被告N・Iについて(回答)」と題する書面によると、国際刑事警察機構(アイ・シー・ピー・オー)台湾国家中央事務局が被告人の年齢に関してA・R子から事情を聴取したところ同人の供述と被告人の供述とが一致することが判明したとされている。)。
しかし、出生の月日については、「万年暦」によると、被告人が供述する一九五九年旧暦九月一一日は西暦では同年一〇月一二日にあたり、また、前記K・S子から被告人に宛てた手紙によれば、K・S子が被告人の母親から聞いた話として、被告人の出生年月日は中華民国四八年旧暦九月一〇日で西暦一九五九年一〇月三〇日である旨の記載があるところ、「万年暦」によれば一九五九年旧暦九月一〇日は西暦では同年一〇月一一日にあたるのであつて、A・R子は、前記の手紙では被告人の出生年月日を一九五九年の西暦一〇月三〇日としているものの、果たしてそうであるか、あるいは真実の記憶は同年の旧暦九月一〇日(又は一一日)であつて、暦の換算を誤つたものか、判然としないところがある。
さらに、証人A(当一七歳。本件共犯被告人)は、自分はビエンチャンでは被告人の家の近くに住んで往き来していたが、被告人は自分より二学年上で一歳くらい年長であり、このことは被告人の母親からも聞いてよく知つており、また前記K・S子について同女は被告人より年長である旨供述している。そして、前記東京入国管理事務所長作成の昭和五四年四月二七日付「捜査関係事項について(回答)」と題する書面添付の東京入国管理事務所入国警備官作成のK・S子の供述調書騰本によれば、K・S子の生年月日は一九五八年八月二二日とされており、この点については被告人及び証人Aが各供述するところに符合するのである。
なお、被告人はK・S子と一九七五年に同棲し、翌年結婚したと供述しているが、法律上正式な婚姻であるのかについては判然としない。また、右供述によると、被告人は一五歳で同女と同棲したことになるが、これはあり得ないことではない。
被告人の年齢に関する諸拠は、以上のとおりであつて、以上の証拠を総合して考えると、被告人は西暦一九五九年一〇月生れであるが(日までは判然としない。)、一九七四年ラオスの戦乱により家族とともに国外に脱出する際に被告人が外国で就職する場合の都合を考えて、生年月日を遡らせ、年令を三歳余水増しして申請して身分証明書を入手し、その後タイを経て台湾に来たが、その水増しした年齢で戸口名簿に記載され、旅券の発給を受けてわが国に来たものではないかとの疑いが存するのであつて、すなわち、被告人が一九五六年八月一日生れであるとの本件起訴状の記載に沿う前記各証拠には疑いを挾まざるを得ず、結局、被告人が現在成年に達していることの証明がないことに帰するものである。
以上の次第で、被告人は少年法上の「少年」に属すると認められるから、本件公訴提起は少年法所定の手続を経た後に行われなければならないところ、同法所定の手続を経ていないことは記録上明らかであつて、本件公訴提起はその規定に違反したため無効であるから、刑事訴訟法三三八条四号により本件公訴を棄却することにして、主文のとおり判決する。
検察官○○○○公判出席。
(裁判長裁判官 大久保太郎 裁判官 小出淳一 小川正持)
〔編注〕 本件公訴棄却後の家裁決定(東京家 昭五四(少)七九六〇号・八一八五号検察官送致決定)